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Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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評価~Evaluation
 「評価」を下すのは難しい。私がブログで書いている「レビュー」の類も「評価」の一種なのだろうが、恐らく「評価」たる水準を満たしておらず、せいぜい「ご紹介」か「感想文」程度のものである。もちろん「ご紹介」も「感想文」も立派なブログ記事であって、それをどうこう言う気持ちは全くない。ただ私自身がレビューを書く際には、「感想文」に何かを上乗せしたい、出来れば「評価」というレベルを目指したいという風に考えることが多い。

 かといって、どこからが「評価」でどこまでが「感想文」なのかと問われると答えに窮するし、そんなことを言い出したら何一つ書けまい、とは思う。また、せめて個人的な「好み」と「良し悪し」ぐらいは区別したいと思い悩んだその結果が、開き直った「好み」を前面に押し出した文章ばかりになってしまっているので、今さら何を、とも思う。私に出来ていることといえば、ここで向上心すら捨ててしまえば後は転げ落ちていくだけ、という恐れを持って、無駄を承知で最後の一線にすがりつつ、日々の駄文を連ねるのが関の山といった次第である。

 本稿では、「評価」というものに対して雑ぱくな印象等を思いつくままに列挙してみたい。普段管理人が自らに課そうとしている事の一端でも、この中から伝われば幸いである。
【評価とは何か】
 「評価」という言葉は、goo辞書で調べた結果によれば、以下のような意味とされる。

(1)物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること。
(2)品物の値段を定めること。また、その値段。
 (以下省略)

 後者は、「鑑定評価」と言い直すと何となくしっくり来るのではないかと思う。「なんでも鑑定団」でやっているのがそうであるし、ビジネスの世界でも「不動産鑑定」なんていうのはその典型である。管理人は以前、仕事で不動産鑑定を行っていたことがあるが、あの時も「評価」の難しさには音を上げていた記憶がある。「自分が買う人の立場になって、いくらなら買うのかを考えるのが評価」などとも聞いたが、自分の趣味で買う中古CDの類ならいざ知らず、自分が一生買うことがなさそうな工場用地10,000㎡について「いくらなら買いか」などわかるはずもなく、今思い出すだけでも冷や汗ものである。

 言ってしまえば、「評価」とは「値決め」「値踏み」を行うことに他ならない。「あれは良いものだ」という誰かの名言があったが、もう少し突っ込んで価格なり、他の有名な同種のものと比較して相対的な価値の水準を示したりすることが「評価」であると言えよう。


【一つの価格(価値)を決めることの難しさ】
 さて、評価に関連して「一物多価」という言葉がある。これは「対象物は一つなのに値段はいくつもある」という意味だが、「同じようなキャベツなのにこっちのスーパーの方があっちの店より35円安い」という卑近な例に留まらない。不動産の世界は特にこれが顕著で、現実に不動産を売買する価格である「取引実勢価格」、国や地方公共団体が土地の取引価格の指標として毎年定めている「地価公示価格」「県基準地価格」、固定資産税を算出するために用いられる「固定資産税評価額」、企業がその土地を取得した当時の価格である「簿価」、金融機関が担保に徴した際に内部で決定する「担保評価額」等々…。ほとんど言葉遊びではないかと思えるぐらいに「値段の種類」自体が多い。しかし、これらはどれが正しくてどれが間違っているということではない。そこには色々な思惑が絡んでおり、何のために不動産の値段を定めるのか、によって価格が異なっている、ということなのである。

 「値段ではない価値の高低」を評価する場合においても、「一物多価」は存在する。人によって評価が異なるのは、各人の能力の差で評価精度が異なっていることもあろうが、そうした問題がなくともまるで違う評価というのは起こりえる。これもまた、どちらかが間違っていてどちらかが正しいというわけではなく、視点や想定条件、切り口や立場の違いによるものであって、正反対の評価だとしても双方に理がある、という事態は十分に想定される。一本の映画について、先進的なCGを大いに活用したアクション巨編として見るのと、根底に流れたヒューマニズムを鋭く描いたドラマに重点を置いて見るのとでは、評価が違って当たり前、ということだ。

 先の例に戻って土地の評価で言えば、作業に先立ってまず対象地の最適な利用法を定める必要がある。銀座のど真ん中に位置し、高級バーが軒を連ねる商業地の一画、表通りに面した人通りの多い土地であれば、最適な利用法はやはり高級志向の飲食店用地であろう。東京都心から電車で約一時間、戸建て住宅や中規模アパートが立ち並び、公園や学校なども整備された閑静な住宅街であれば、住宅用地として評価するのが望ましい。しかし、このように割り切れるケースばかりとは限らない。繁華街の至近にありながら人通りはそれほど激しくなく、現状は閑静な住宅街そのもの、しかし商業地域としての再開発が計画されており、官民含む各方面でその是非が検討されているような地区は、固く見れば住宅地、明るい将来を見越せば商業地として評価されよう。この先の景気への明るい観測が見込まれ、金融機関も積極的にお金を貸したいという時なら、多少再開発計画の成立が不透明でも前向きに評価することが多いのだが、後で目算が外れて事業者も金融機関もエラいことになったり、いやいや話が逸れた。

 とにかく、評価はそもそもの前提条件からして「唯一無二のもの」というのを定めるのが難しいのだ。多くの場合、条件は流動的であり、未定であり、詳細不明である。そんな中で、評価だけは一つのものを導き出すことが求められるのだから、評価する側は堪ったものではない。「オレは神様じゃねーんだ、わかるもんか!」と言いたくなるのも詮無いことではないか。評価者、鑑定人なんて仕事は、よほどその評価対象に感情を注げなければ、やってられないのである。


【評価に王道なし】
 そうした、判断の分かれる部分で進むべき道を決定付けるのは、第三者を説得できそうな「客観性のある論拠」である。上記の例で言えば、商業施設を建てられるようになる行政上の手続きの成否が再開発計画の死生を決する。従って、地方公共団体へのヒアリングによって「都市計画変更が行われる可能性、変更の時期」などについて確実に押さえなければ、「商業地としての評価」は難しい、ということになる。もちろん、間もなくここは一大商業地になるという風評のみによって値上がりを期待し、都市計画変更が怪しかろうと相応の高値で買う山師はいよう。でも、それはその人が自分で打つ「バクチ」であって、その土地を第三者が納得出来る価格に「評価」したことにはならない。

 この「客観性のある論拠」は評価する対象によって異なるのが常であり、マニュアルを読めば見つかるようなものではなく、道端に落ちているわけでもない。これを捜し求めるのが評価の醍醐味でもあり、最も難しい部分なのだ。多くの戦場を潜り抜け、どの辺に「キモ」があるのかをすばやく見定める能力を培った者は「良い評価者」となり、その能力が存分に活きた評価は多くの人を納得させる「優れた評価」となる。経験に基づいて鍛え抜かれた感性だけが、その領域への扉を開く鍵となるのだ。

 レビュー書きも「評価」という域まで高めようと志すのであれば、説得力を持たせるための客観性ある論拠が必ず必要となるように思う。感情に溺れているような文章と読者が感じたり、大きな見落としを読者から指摘されるようであれば、例え文章テクニックを労して「評価」っぽく書いてあっても、それは「感想文」の域を出ていないということだ。たかがレビュー、されどレビュー。そんなわけで私は、所詮は趣味の領域であることを享受しつつ、自由気ままにどこまでも高みを目指しながら、今日も無い知恵を絞って「感想文」を書きしたためるのである。




 ところで、こんなものを大事なレビューの直前に書いているオレは、どう考えても自分の首を絞めていると思うのだがいかがであろうか。
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