ちょっとだけ、時間を巻き戻して…。
誰も覚えていない、あの時に帰ろう。
それは本当に、何でもないようなひととき。何かを為そうと思うわけではなく、がむしゃらに突き進むのでもなく、何も決めず、何も予定しない。そんな、およそ「計画」とは呼べそうもない、あの「計画」の時を…。
あれらの時は、無駄なひとときだったのか。
いや、そうではないはずだ。なぜならば。
手元には、道しるべが残った。そしてまた、私たちの心には、温かな思いが残った。どこへでも行ける確信と、どこへ行っても変わらぬ確かなものが残った。
さあ。これらを持って、今一度ゴールに向かおう。今日思い返したあのひとときは、新たなものを抱いて再び終局へ至るための、素敵な「計画」だったのだから…。
誰も覚えていない、あの時に帰ろう。
それは本当に、何でもないようなひととき。何かを為そうと思うわけではなく、がむしゃらに突き進むのでもなく、何も決めず、何も予定しない。そんな、およそ「計画」とは呼べそうもない、あの「計画」の時を…。
あれらの時は、無駄なひとときだったのか。
いや、そうではないはずだ。なぜならば。
手元には、道しるべが残った。そしてまた、私たちの心には、温かな思いが残った。どこへでも行ける確信と、どこへ行っても変わらぬ確かなものが残った。
さあ。これらを持って、今一度ゴールに向かおう。今日思い返したあのひとときは、新たなものを抱いて再び終局へ至るための、素敵な「計画」だったのだから…。
~~~
…あれ?記事冒頭部分だけで、今回書きたいこと全部書いちった…。orz
いやいや、レビューを待っていて下さった皆さん、どうもお久しぶりです。日常の22話レビューを書いたのを最後に、既に3ヶ月あまり。けいおんシリーズのレビューに至っては、1年2ヶ月ぶりとは…二期Blu-ray9巻が出てからもずっとほったらかしで、一体何をしておったんだ、というね…。そうこうするうちに映画も公開になって、精神的にはどんどん追いつめられる一方だったんですが…いつまでも、「書けない精神状態のまま」でいるわけにもいかないなと思い、とりあえず「果たすべきこと」に遅まきながら手を着けた次第です。
とにかくもう長いこと何も書けずにいたんで、レビューの書き方なんてすっかり忘れているんですが…その結果が、「冒頭部分で書きたいこと全部書いちゃった」というこの有り様です。や、全部が詰まっている「京アニのアバン」へのリスペクト、とでも言っておいた方が良かったかしら…。
そうです、今回の番外編もまた、重要な部分がアバンで示されていたように思います。少なからず邪推混じりですけどね。でも、多分、その邪推のいくつかは、当たらずと言えども遠くないんじゃないかなぁ。
その辺、もう少し細かく見ていきましょうか。
【渡せなかったものを】
お祭りの時、渡せなかったから。
ちょっと季節外れなんだけど。
アバンでの、ムギのセリフですね。別になんてことはない、ちょっとした説明セリフ、で過ぎてしまいそうな部分です。だけど邪推ストとしては、たったこれだけでも実に美味しいなぁと思うわけですよ。
だって、この直前の回までは、冬を抜けて春に至る卒業式と、その近辺のお話だけをやっていたわけですから。見ている側は気分的には、そこから全然抜け出ていないんです。まだまだ肌寒い頃だって感覚がどうしても支配的で、夏のお話をやりますって言われてもなかなかアタマが付いて行きません。
そういう状況下で言われるのが、このムギの「ちょっと季節外れなんだけど」というセリフなんですよ。いや、ムギは見ているこっちの環境のことを言ってるわけじゃないんだ、って理屈ではわかってるんですよ?でも、何かメタなネタを放られた気がしてなりません。本当に物語の上のことだけを言ってるんだろうか、それとも、ってね、ついつい思っちゃう。
もし、このセリフがストーリー展開上の意味以上を持っているんだとすれば、その前に言われている部分も何らかの意味があるってことになります。「お祭りの時、渡せなかったから。」うん、ここではムギのおみやげのことを言ってるんですよね。だけど、これもちょっとメタな要素を持っていたとしたら?物語上の意味に被せる形で、こんなことを暗に表してるんだとしたら?
「本編の中では、描けなかったから。」
番外編、てことですよね、それは。メタだなぁ。うん、メタだ。でも、この場合はただのメタで終わること無く、その意味するところは作品世界にもう一度帰って行くんです。
何故かと言えばこの部分が、本編の流れでは描けなかったことがあって、でもそれは表現したいことなんだ、そういうものが残っているんだ、ってことを意味するからなんです。じゃあそれは何なのだ、となるわけで。本編で描けなかったものの中身、この番外編で描こうとしたテーマへと、焦点が移るんです。作品の外側の話では終わらず、作品の内面へと、結局戻っていくんですね。
普通にこれまでの流れを踏襲するならば。卒業式までを順行の時間軸で一気に描ききった二期本編を終え、ちょっとだけ歩みを戻して彼女らの思い出のアーカイブ化の過程を辿った番外編二本を経て、更に風呂敷を畳んでいくのが王道でしょう。でも、最後の番外編では「ちょっと」どころか「大きく」時間を遡って、本編の「終局」には直接繋がりそうにもないエピソードを描いています。全然普通に流れてないんですよね。必要なのか、これ、って、ついつい思っちゃうくらい。まあ、本当に番外編っぽいので、そんなものかって気もするんですが、「本編で描ききれてなかった部分をやろうとしての番外編」と思うと、何か違和感があります。
時間を大きく巻き戻してまで…一体、何をやりたかったんだろ?
それは、一つには、決して終局には結びつかないユルい彼女らの時間をもう一度描くこと、なんだろうと思います。本当にこれ、「二期本編の流れ上は、無くても全く影響のないエピソード」ですし、また「二期本編に補強・付加するような何かを全く持たないエピソード」なんですよ。どこまでもユルくて、ほぼ全てが不定形で、その行動の意味合いなどを考えることが無為に思えるような、そんなエピソードだと思います。だったら、そのユルさを楽しむのが正解なんでしょう。ついつい笑っちゃう素の彼女らを、楽しんで見ていればそれでいいですよね。いいんだと思うんです。
でも。
恐らくはもう一つ、制作陣がやりたかったことがあって。…これが、この番外編単体のみを見ていると、とても気付けない仕掛けになっています。既にご覧になった方はお分かりと思いますが…この番外編、映画に向けての前哨戦なんですよね。それも、色々な意味での前哨戦です。
単純にわかりやすいところから言えば、海外旅行に必要なパスポートを夏の時点で取ってあること。これが、実際に海外旅行に行くエピソードを含む「映画けいおん」の、(必須ではない)前提の一つになっています。でも、それだけじゃなくて、実に細かい「前フリ」が、この番外編の中にはいくつも見つかるんですよ。
憂が唯たちの海外行きを心配して買ってくれた護身術の本と、それを使っての実地訓練、とか。
役に立ちそうもない英会話の練習と、本来の目的を外れた身振り表現の練習、とか。さらに言えば、その合間に交わされた澪とムギの会話が、映画でどのように発展していくか、とか。
Bパートでさわちゃんが言っている、「初海外が教え子と」「いいわね、ハネムーン!」というセリフが、映画の中の出来事とどう絡むのか、とか。
海外へ行くと小学生くらいに見られそうと言われているあずにゃん、とか。
他にも、大事なところで生徒手帳を忘れた律が、それを踏まえて「今度は大丈夫」と思ってそうな顔を映画で披露していたり、海外旅行グッズを見に行った時のアイマスクやインスタント和食の前フリ、そして「海外デビュー」という冗談から出た何かやら、「でもさ、旅行に楽器持っていかないだろ?」というセリフの可笑しさやら…この記事ではなるべく変なネタバレにならないような書き方にとどめていますので、未見の方には全然伝わらないと思うんですが、でも既に映画をご覧になってる方ならお分かりですよね?もうね、この番外編見て、映画を見て、もう一回この番外編を見てから更にもう一回映画を見て頂きたい!楽しいんだわ、どっちも、実に。
この番外編を見てなくても映画は十分に楽しめますが、あらかじめ見ておくことで確実に楽しさは増します。そういう、映画にとっても番外編としての機能を、この番外編は持っている気がします。二期本編にとっての番外編であると同時に、映画とリンクする映画の番外編としての存在。二つの流れを緩やかにつなぐ、ブリッジのようなもの。それがこの番外編・計画!です。
そのような構造にすることで。既存の二期本編のあの流れは、ここで一度改められているんです。
卒業へと向かう4人と、一人学校に残るあずにゃんのお話。その重たい流れをいったんクリアして。映画のエピソードに向かう前フリであると同時に、どこまでもお気楽な雰囲気に、けいおんの世界と視聴者の意識をリセットする役割をもこの番外編は担っているんです。そしてそれは、ただの「感情面でのリセット」だけではなくて…二期の流れから一旦解放された物語は、最終的には「もっと大きな括り」を俯瞰できるところまで、高く羽ばたくんですね。来たるべき劇場版の「もう一つの大きな流れ」を導き出すために、あえて二期本編から一度、彼女らのストーリーを引き剥がしているんですよ。
そこまでするだけの理由が、あの映画には存在しますから。
「お祭りの時、渡せなかったから。」
本編というお祭りの中で、ムギたちから視聴者に渡せなかったものは、映画のストーリーにおいて渡されることになるんですよね。
【例え記憶には残らなくても】
誰も憶えていない
誰も気付かなかった
その一日
どの一日
(池澤夏樹「ローラ・ビーチ」より)
さて、繰り返しになりますがこの番外編は、「二期本編の流れ上は、無くても全く影響のないエピソード」にして、「二期本編に補強・付加するような何かを全く持たないエピソード」です。それは、私という一個人が感じたことに過ぎませんが、それが敢えてなされたのだろうことを裏付けるようなセリフやモチーフを、アバンの中からいくつか見つけることができます。
一つは、これ。
憂「行ったことあるよ?小さい頃。」
唯「そうだっけ?」
憂「全然覚えてないの?」
おいおい、覚えてないのかよっ。でもまあ、唯だしな。表面上はそういうセリフです。でも、ここにあえてこんなセリフを導入した意味を考えると、なかなか趣深いと思うんです。だって、これからこのエピソードで語られること自体が、誰の記憶にも適当にしか残らないような、傍流的なものなんですもの。それは「覚えていない」ようなもの。本編23話「放課後!」でも念入りに描かれていた、非公式で曖昧なアーカイブです。それを、卒業へ至る流れの中ではなく、本当にどうでもいいような流れの中で描こうとしたんじゃないのかな。誰も覚えていない、その一日・どの一日を。
そしてもう一つ。上記のセリフと前後して、澪がその場のスナップを撮るんですが…これ、何を撮っているんでしょうね?彼女が写した風景は、机上に並んだ麦茶とムギからのおみやげなんですが、何と言いますか、まあ、非常に適当で、割とどうでもいいようなスナップになってます。その場の人物の表情が写ってるわけでもなく、おみやげへ特別にフォーカスしているわけでもなく、雰囲気を無造作に切り取っただけのもの。薄れた記憶をちょっとだけ支えてくれるぐらいの、でもこのスナップがなくても特別に困ることは無さそうな、そういう一枚。あっても別に構わないんですが、わざわざ手間暇をかけてまでここに入れることが必要なものとも思えません。でも、この一連の動きをアニメーションとして作画したからには、それなりの意味づけがあると思うんですよ。それは、「誰も意識していない、特別でない一瞬(ひととき)」を表現しよう、ってことなんじゃないかなと。
最後に、本編の流れから切り離されてるってことを表していそうな部分として…ここに出てくる梓、日焼けが既に冷めていて、ダメ押しにそのことを律から指摘させているんですよね。あの、すぐに真っ黒に日焼けしていた梓は、二期本編の流れの中では、先輩たちへの思いと思い出にすぐ染まってしまう梓自身の心の象徴として扱われていたと思います。そのことが、このエピソードからは意識的に取り除かれてるんですね。それ故に、彼女はここでは日焼けしていない、素の梓のままなんじゃないでしょうか。
律「よし、行くか!」
唯「うん、行こう行こう!キーーーーン…」
だから、そこで交わされるこのやり取りは、別に約束ではないですし、予定でもなく、終局に向かっていくベクトルさえ持たないんです。いつかの終わり近くの日に、偶然みたいに再び彼女らの会話で話題に上るまで、いや、話題に上ってさえも、このやり取り自体は忘れられたままなんです。
~~~
約束でないような約束。予定ではないような予定。計画になってない計画。そんな他愛もない会話が、5人の間で続いて行きます。
端的なのは、その行き先ですかね。唯は美味しい物があるならどこでも良くて、ムギもみんなとならどこでも良くて(ただし、海外じゃなくていいなら温泉?)、律がハワイ、澪がイギリス、梓がニューヨーク、ってところですか?いやー、適当だなー。実に適当です。この会話自体は本当に適当なんだけど、視聴者はこの会話はちょっと記憶に留めておいた方が美味しいですね。また映画の内容に触れる時にも言及したいと思うんですが、今日はこのぐらいにしておいて。
で、こうやって行き先について意見が割れている状態は、ここではこのまま放置されます。決めないのかよっ。はい、決めないんです。それって、計画と呼べるの?呼べないわなぁ。
でも、ここではそれで別にいい、ってことなんでしょうね。「計画」としては明らかに成り立っておらず、言わば計画を立てること自体に失敗しているような状態なんですが、それさえもこのエピソードは許容しているように思えます。
律たちのいたずらで豪快に失敗しまくった澪の証明写真について、こんな会話が交わされます。
澪「どうしたらいいんだよ、これ…」
律「記念に取っとく」
いやいや!何の記念だよ!誰も覚えてないような一日なのに、特別なイベントとは呼べないようなその日なのに…。でも、それは彼女らにとっては「すごくどうでもいい大事な一日」であり、「全然記憶に残っていない大切な思い出」なんですね。失敗しちゃっていて、意味なんて無くて、笑っちゃうくらい適当で、でも彼女らのアーカーブを確かに埋めている、重要なパーツのかけらです。
唯「じゃあ、二回行こうよ、卒業旅行。
あずにゃんが卒業する時も行けばいいし」
見ている僕らは、記憶に留めておきましょう。でも、彼女らはこの会話がここでなされたことを、ほとんど覚えていないのだと思います。そして、同じ結論に再び辿り着く。そんな彼女らだからこそ。
唯「私たち、どこだって行けるよ」
そんな彼女らだからこそ、どこにだって行けるんです。それは、どこの国へでも、という物理的な意味を超えて、「無限の可能性をポジティブに持ち続ける少女たち、という含みを感じさせてくれます。空に雲を引いてくあの飛行機のように、行き先はわかりませんが高く遠く、飛び立っていくのです。
そしてまた。
唯「私たちはどこ行っても放課後ティータイムだよ。」
どこに行っても、彼女らは放課後ティータイムなんですよね。卒業して大学生になろうとも。ちょっと離れたところでそれぞれを過ごすことになろうとも。永遠に放課後な彼女らは、永遠にどこへ行っても放課後ティータイムなのです。
~~~
パスポートを無事にゲットして、冒頭アバンと同じようにまた彼女らは集まります。そこで再び、澪が写真をパチリと…。
でも、その直後に写った写真は、澪自身を含む5人がパスポートを持って写っているんですよね。演出上は一連の流れに配置してありますが、澪がここでパチリと取った写真はこれじゃないんです。
じゃあ、澪がこの時に取った写真は?それがどんな写真なのか、誰にもわからないんですよ。誰も覚えていない、誰も気付かなかった、その一瞬…。
きっとそれは、アバンの写真と同じように、特別ではない適当なスナップの一枚なんでしょう。でも、そのどうでも良さげなものであっても、彼女らのアーカイブを確かに埋めているのですし、それらの適当なものを積み重ねて、彼女らはどこへでも飛び出していくんです。まるで、どうでもいいような彼女らの一瞬一瞬が、重なり連なって大きな計画へと姿を変えていくように。
「けいおん」シリーズは、「彼女らの今」を切り取ることを目指した作品だったのだと思います。単に緩くて可愛いだけではなく、その適当さやどうでもよさの部分にさえ、奇跡のように輝く何かが時折垣間見えて、それが幅広い視聴者の共感につながったんじゃないかな。
今一度。彼女らの「今」の連なりに思いを馳せましょう。そして今一度。彼女らの辿る「今という時間そのものの奇跡」を、今度は映画という枠の中で描かれたそれを、私なりにアーカイブ化してみたいと思います。ではまた、その時に。
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