ほわあぁぁぁぁ……。
あっ、終わった……もう時間か、早いな……。
…あ。
……あれ?
あれっ、あれれっ。
何だ、この「終わっちゃう」感はっ。
あっ、終わった……もう時間か、早いな……。
…あ。
……あれ?
あれっ、あれれっ。
何だ、この「終わっちゃう」感はっ。
畜生っ。
やられたっ…全然気付かぬ間に、いつの間にかに、きゅーっと。きゅーっと、引き戻されてたっ。
ん?「引き戻されてた」って…ドコにだろ?そもそも今回、一体何の話だった?…ああ、やべぇ、涙出てるわけでもないのに、全然自分を制御できてねぇっ…。
紛う方無き「フィクション」の中に、どういうわけだか「リアルの切なさ」を感じさせてしまうような仕掛けを、本当にさりげなく仕込んでいるような…。全然そんな風に見えないのに…。夏フェスとか、オレには共感しにくいイベントの回なのに…。
ラストシーンの会話がその切なさの鍵になってたのはすぐ気付いたんですが、京アニは「最後だけ殺し」とか、あんまししないスタジオなんですよね。必ず、その前からの仕込みがある。そう思って何度か見直したら、ああ、こうかなと思う点がちらほらと。バンド方面、ライブ方面があまり得意ではない私なので、そういう部分は実に書きにくいんですが、仕込みの辺りを中心に掘り起こして私なりに書いてみることにします。彼女らの、一度きりの夏の体験について、を…。
【刹那の永遠】
夏休みの話、だったんですよね、今回。その中でやる、合宿の話、だったんですよね、今回。サブタイトルは「夏フェス!」なんですが、夏休みの出来事の代表格として合宿のことを取り上げ、前二回とは違う内容ってことで夏フェスになってるんです。
夏フェスの描写自体もリキが入っていて(私自身は参加したことがないので、あくまでTV放映で見たことのある録画の雰囲気との比較になりますが)、モノホンかと錯覚しそうな臨場感と言い、参加した者でなければ知り得ない諸々と言い、相変わらず非常識な描写力だなーと感心しながらの視聴でしたが…それだけでは終わってないんですな、エピソード全体としては。
「夏フェスの話だよな」という視点のままに今回のエピソードを繰り返して見ると、序盤のところですんごい違和感が生じるんです。夏フェス本編に入るまでにエラく長い時間が取られてるんですわ。アバンなんて、夏フェスの「な」の字も無いです。
え?展開上、そりゃ無理もなかろうって?これから夏フェスに行くってことを決めるんだから、アバンの時点で夏フェスの話なんか出てきようもないって?いやいや、そこは構成次第でどうとでもなるっつーか、実際にけいおんのシリーズ中でも時系列を逆転させたアバンって何回もあるんですよ。合宿の話メインなのに、合宿最中の中盤の映像がアバンに据えられていたり、ステージデビューの話なのに、演奏開始直前の緊張する澪をアバンで見せていたり。他のスタジオの作品ならいざしらず、京アニに限って言えば「本編・メインエピソードを意識しないアバン」なんて、有り得ません。そのアバンが、「夏季休暇」という黒板の文字がどーんと出て始まって、今年も合宿に行くぞ、おー!の掛け声で締めくくられてる。今回は夏休みの、合宿の話ですよと、そういう提示なんですよ。
つまりは。今回は、夏フェスであるかどうか以前に、「夏休みの話」「合宿の話」という属性が、実は重要視されてるんじゃないかと、そう思うのです。何故に?そりゃあ、唯たちにとって「高校生最後の夏休み」であり、放課後ティータイムにとって「現役最後の合宿」だからじゃないですかね?
ナニをどうひっくり返したって、「一生で一回しか経験し得ない黄金の時間」じゃないですか。
「フィクション」ってね、いや、あらゆる創作物まで範囲を広げてもいいですが、ある種の「永遠性」があるわけですよ。創り上げたもの、完成させたものは、それ自体は不変でしょ?DVDとか持ってれば、何回も繰り返して鑑賞できますし、見るたびに内容が変わるってこともない。メディアの寿命、再生機の耐用年数等の物理的な制限はありますが、コンテンツ自体は永遠なんですよね。この「けいおん!!」だってそうで、生み出された以上は半永久的に世界に残るコンテンツなのです。
なのに、その中で語られているエピソードは、ただ一度きりの、高校生生活最後の夏の話であって。描写されている時間は、もう二度と体験できない、アツい瞬間であって。そこに息づく仲間との触れ合いは、その時でしか味わえない、あり得ないほど密度の高い交流であって。
そんな刹那のものが、「永遠性」を持つコンテンツの中にギューっとパッケージされちゃってるんですよ?そこに気付いたら、何かじわーっと来ねぇ?…来ねぇかぁ…うん、そりゃあ残念だ、ゴメン…。
でも、そういうことを意識して作ってるんじゃないかってところは、いくつかあるんです。例えば、ラストシーンとかにも。
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これからもずーっと、みんなでバンドできたらいいねー。
イイハナシダナー、と、一方では思いながら。そりゃあ無理だよね、ってことも、オトナは同時に感じてしまいます。だって、「ずっと」は無理ですもん。それを改めて声高に言わないまでも、厳密な意味で人間には「永遠」も「半永久的」も縁がないんです。
何もかも、変わらずにはいられない。
…でしょ?今はこうして「ずっと一緒にできたらいいな」ということを共有している5人であっても、その状態を永続させることは非常に困難です、というか無理です。
残酷な話ですが、この7~8ヶ月後にはもう無理になっちゃうわけですよ。唯たち三年生は卒業して、梓は高校に残る、その断絶は何をどうやっても訪れてしまいます。卒業しても変わらない関係を維持しようと努力することは可能でしょう、だけど、何もかも同じとまでは行かないです。日常生活の変化やら、同じ校舎にいないことの想像以上の困難やら、変わるものがあまりにも多すぎるんですもん。「バンドとして活動を維持すること」は可能であっても、「今のこの関係性をそのまま維持すること」は無理なんだと思います。
だからこそ、この言葉は、とっても切なくて、どこまでも愛しい。そう思います。どんなに強く願っても果たせない願いであり、でもその願いが生まれたこの時間自体が奇跡であり。それらのことが、ラストシーンが終わった後に、得も言われぬ余韻をもたらすんです。辛いとか理不尽とかいうのとはちょっと違う、無常なんだけど無情ではない、何とも心が暖かになるような…。
維持しようと思っても、維持できないものがあります。
例えば。都合よく5枚のチケットをさわちゃんが提供してくれた理由が後半で語られますよね。「一緒に行く友達が直前でキャンセルしたから」って。5人もがドタキャンってご都合主義っぽくね?って思っちゃいますが、それはちょっと脇に置いておいて。あのさわちゃんが毎年来ているという夏フェスですから、一緒に行く仲間もバンド方面の仲間なんじゃないかと、一応想像出来るわけですよ。それが高校の時のDeath Devilのメンバーかどうかまではわかりませんが、ある程度親しい間柄には違いありません。でも、そんな仲良しの間であっても、楽しみにしていたこの手のイベントがドタキャンになってしまうことがあるわけです。「来年も来ようね!」と言ったかどうか、でも、一緒に来られないことは、こうやって起こってしまう。
何とか取り返そうと思っても、取り返しのきかないことがあります。
スニーカーを履いてこなかった、というより、そもそも「スニーカー」を持ってるかどうかもあやしい紬。今までの回で履いてたことがあるかも知れんけど、思い出すことも見直すことも不可能なので、印象のみではありますが…いずれにせよ、今回についてはスニーカーなしです。このヒールのある靴で山ん中はキツいですよね。そこは、唯が持ち合わせのビーチサンダルを提供して、ある程度のリカバリーはなされるわけですが…これで万全かというとそんなことはなくて、いざ走ろう!と紬がしても、ビーチサンダルはやっぱし脱げてしまうんです。悲しげな顔の紬、珍しいですよね。だけど、どうしようもない。お風呂さえ入れる夏フェス会場であっても、替えの靴は手に入らない。まさか取りに帰るわけにも行かない。どうにもならないんです、こうなってしまった以上は、どうにも。
どちらも捨てられないと思っても、どちらかを捨てねばならない時があります。
複数会場で並行して進行するイベントゆえ、「別々の会場でどうしても見たいものが、同じ時間にやってる」というのは起こってしまいますよね。どこでもドアが欲しい!とか、せめてタケコプターでも!とか思っちゃいますよね。でも、そんなものは手に入らないから、どうしてもどちらかを諦めねばなりません。こういうイベントに限らず、日常生活でも起きうることですよね。テレビに限って言えば、最近はダブルチューナー搭載とか当たり前に増えてきてて、見たい番組がかぶっても両方見れる、なんてのが自然にできちゃう環境もありますが…そっちがむしろ掟破りなのであって、元々人間の体は、頭は、「同時に二つのことを当然にこなす」ようには出来ていないんです。もし仮に、努力の末に二つを同時にこなすスキルが身についたとしても…自分の生活から二律背反を完全に排除するのは、不可能なんです。
どんなに強く願っても、手に入らないものがあります。
やきそば。なんてことないもの、ではあります。だけど、紬にとっては、どうあっても外すわけにいかない、今回のメインイベントだったようです。行きのバスの中とか、裏返っちゃうほど声張り上げてて、あまりにも微笑ましくて笑ってしまいました。覚えてますよね、これまでの紬の行動。二期に入ってから、一瞬の楽しみも見逃すまいとするように、あれもこれも貪欲に飛び込んでいって、「これ」と思うものを楽しみまくってきた彼女。今回も、テントの中で一人「楽しみまくる」様が描かれていました。ですが…そんな彼女が繰り返し口に出して願っていた「やきそばを食べたい」という願いは、あっさりと潰えてしまいます。その後の切り替えの良さには正直舌を巻きましたが、あんなに食べたがっていたんだもん、食べれるように描写してくれたっていいじゃないですか、ねぇ。だけど、彼女は食べられなかった。「今のこの時間でしか味わえないものを、とことんまで味わってやろう」として揺ぎ無い紬でも、こうして逃してしまうものがある。
…本当に娯楽作品なのか、これ(涙)。
口当たりの良い調味料と、極上の調理の腕前とで、すごく食べやすく加工されているけれど、そこに息づいているのは「現実の残酷さ」じゃあないのか?作品そのものの永遠性を忘れさせてしまうような、擬似リアルの辛さがその裏側に存在するんじゃないのか?
…いや。ひょっとしたら逆なのかも知れません。
辛さがどうしても生じるような「残酷な現実」と共に、僕らが生きているからこそ、この作品ではそれと一緒に「刹那の救い」と「大切な時間」を描き出そうとしているのではないかと。
友達と一緒に来られなかったさわちゃんは、でも教え子たちと共にライブを満喫し。
スニーカーのない紬でも、イベントそのものはそこそこに楽しむことができ。
体が二つ欲しいとまで言っていた澪も、出来る範囲で自分の見たいものを心ゆくまで楽しみ。
あんなに願ったやきそばを紬は食べられなかったけど、それ以外に彼女はたくさんの楽しい「初めて」に触れ。
何か…夢みたいだな。
夢のような時間。そして、都会では決して見ることの叶わない、満天の星空。どこまでも広がり、いつまでも…まるでそれが「永遠」に続くのではないかと錯覚させるような、現実離れした光景。この瞬間しか得られない、そんなイベントのさなかでの、「永遠」へと繋がる開かれた窓。
その空気の中で語られる、唯の言葉がこれです。
でも、私たちの演奏の方がすごいよね。
技量的なことを言ってるんじゃないんですよね、彼女。自分たちが演奏する瞬間の興奮の方が、こうして見ている時間よりもずっとすごいって、そういうことを言おうとしているんじゃないでしょうか。言わば、「自分たちの時間の肯定」なんですよね。だから、その後の会話のあと、唯のこの言葉が続くんです。
これからもずーっと、みんなでバンドできたらいいねー。
それは、それ自体は、実現不可能な願いです。だけど、そのように心底願うことが出来るに至った、ここまでの貴重な日々の積み重ねは、現実に起こった奇跡なのです。そしてその願いだけは、永遠のものだと思うのです。
刹那と、永遠。その両方を内包する光景、その両方を内包する、仲間たちの言葉。彼女らの来た道と、行く末とに、幸あれ。
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