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Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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「ごっこ遊び」について
 歌ですらない先週のこのEDに、一瞬は唖然としましたが…ある意味、これほどこの作品にマッチしたEDもないなぁということに気付き、妄想が色々と膨らんできました。

 メタだメタだと、これまでに私自身も、いくつかの考察系レビュアーさんたちもこの「らき☆すた」のことを言ってきたわけですが、大多数の「そんなの関係ねぇ」な視聴者さんたちがこの番組を大いに盛り上げる中、何故だか「らき☆すた」はメタであり続けました。それは何故か。「らき☆すた」はメタである必要があったのか、そうする意図があったのか。

 本来は「あんまり関係のない話をEDのネタに絡めて綴るシリーズ」だったこの記事群も、いよいよ大詰めを迎えて、いつにないほど真面目なトーンで参ります。最終話の鑑賞を目前に(つまりまだ見ていないのに)こんなことを書き始める自分はバカもバカ、大バカだよなぁと思いつつ、この半年間の思いの丈を綴って行きたいと思います。
 
 まず、「メタ」という言葉の意味から再整理していきましょう。「メタ」は「~について」という意味のギリシア語に由来します。「メタデータ」と言えば、データそのもの(住所録における「氏名」「住所」などのフィールド)ではなく、データについてのデータ(この住所録がいつ誰によって作られたか、どういうテーブル形式を持っているかなど)のことを指します。「メタアニメ」と言えば、娯楽作品としてのアニメーションによる物語本体ではなく、アニメーションを作るという行為やその舞台裏などを表もしくは裏の題材にしつつ現実と虚構の認識を迫る作品が該当するわけで、以前にも挙げたことがありますがTV放映版エヴァの最終話近辺とか、THE ビッグオーのセカンドシーズンのラスト付近などがわかりやすい例でしょう。

 さて、「らき☆すた」が「メタ」だと言われるのも上記のようなことによるわけですが、この「メタ」が「メタアニメ」のことなのか?と自問してみて、ちょっと考えちゃったんですよね。実は「メタアニメ」ではなく、「メタフィクション」というもう少し広い概念の方なんじゃないかしら、と。「メタフィクション」は、フィクションについて言及するフィクションであり、「現実と虚構」という部分に肉薄するという点において、「アニメ」という枠に留まりません。「メタアニメ」である以上は、その作品がアニメであることを痛切に感じさせられるような部分が少なからずあるはずなのですけれど、「らき☆すた」においてはわずかに「実写ED」がその役割を担っているに過ぎず、その他の「メタ的要素」は全て「アニメであるか否か」ではなく「虚構であるか否か」の方を指し示しています。

 これは、制作スタッフの持つスキルの差・表現の巧拙の違いこそあれど、表現手段としての違いを「アニメ」「実写」の二つに持たせていない、ということに他なりません。要は、アニメ的な手段を使おうとも実写を用いようとも、「これはフィクションである」「虚構の世界である」ということさえ言及できれば、制作サイドとしては目的を達成したことになるんではないかなと。


 あー。


 ちょっと暴走気味ですね。ハナシを戻します。(^^;;;;


~~~


 先週のEDにおいて表現されたのは、どっかで見たようなビームサーベルによるバトルでした。まあ、よく動き回るお二人には圧倒させられましたし、ちょっと感性を刺激させられる凝った構図も無いでは無かったですが、基本的にはこれまで通りの「ショボショボ」。前のカットとビームサーベルの色が変わっていたり、最後の決めのところで明らかに刺さっていないアングルだったり、そもそもどっかからとりあえず借りてきたような訳のわからんカツラだったり、まあ、引用元であろう「スターウォーズ」の超絶な殺陣や特撮とは比ぶるべくもありません。

 じゃあ、これは手抜きなんでしょうか?わざわざロケまで行って、時間も人も使って?毎週違うアイディアのものを用意してまで?これなら、ほとんど画面を動かさずに済み、まとめ撮りで何週か分用意できる前期の「カラオケED」の方が工数的には楽なはずです(ネタの捻出は同じぐらい大変かも知れないので…)。じゃあナンでやっているか、と言えば、「やりたいから」ですよね、きっと。単に悪ふざけをしたかったからかも知れませんし、何か深い意味があるのかもしれませんが、どちらも「やりたいから」に違いはありません。で、その意味づけはともかくとして、今回見せたかったのは「ごっこ遊び」かな?と私には思えたんですよね。

 子ども時代に、誰でもやったことがある「ごっこ遊び」。「鬼ごっこ」という高度に定型化された遊びから、なりきりの延長である「ウルトラマンごっこ」に「仮面ライダーごっこ」、複数のヒーローが共存できる「ゴレンジャーごっこ」、ちょっとだけ甘酸っぱい「お医者さんごっこ」、等々…ん、ちょっと待て、オレよくよく考えてみたら最後のヤツ、やってみた記憶がないぞ?!これはイカン!おい嫁よ、オレの欠けた幼少期を補うべく、ちょっと今からお医者さんごっこをやrごふっ!(鼻血)

 えー。気を取り直しまして。あれらの「ごっこ遊び」は、「現実と虚構を繋ぐ呪文」です。現実には、自分の手からスペシウム光線など出るはずがありませんが、しかし自らウルトラマンに「なりきる」ことで、そしてそのお約束をその場の皆で共有することで、一時的に「現実の中に虚構を持ち込む」という方法論なんですよね。その場にいる者は、誰もその「虚構性」には触れません。その瞬間には、それが現実。光線に当たれば、怪獣は死ぬ。繰り出されるライダーキックは、一撃必殺の威力を持っている。惜しくもその場に女の子がいなかったために急遽任命されたモモレンジャー役の男の子は、今だけは女の子。そして、最後には大団円。そういう「虚構」を、その場限りの「現実」とする約束なんですよね、「ごっこ遊び」は。

 しかし、その場面を外から見る者がいた場合、その目に何が映るでしょうか?子どもならば微笑ましく見えるでしょうが、それが大人であればとても滑稽な風に見えるかも知れませんよね。今回の白石のように、「…ナニやってんだ?」と。視点によってはそういう認識を持たされてしまう、脆弱なフィクションのための機構が「ごっこ遊び」なのだ、と言い換えることも出来ます。つまり、「ごっこ遊び」は本質的にメタフィクションとしての仕組みをその中に持っているわけです。内部にすっかり入り込むことでのみ、それは完全にフィクションとして楽しむことが可能ですが、ちょっとでも外に出てしまうと、自分たちがやっていること、そのフィクション性などを一種の滑稽さと共に認識せざるを得ないような。

 振り返ってみると、らき☆すたにおける実写EDは、どれも「ごっこ遊び」としての性質も併せ持っているように見えます。あの画面で繰り広げられる白石稔のダンスと歌は、どれも微妙に「人に見せる芸」としてはショボいものであり、印象の良し悪しはともかく「かなり滑稽に見える」ものです。まるで、スターになりきることを失敗したごっこ遊びのように。


~~~


 「AIR」という作品があります。ゲーム、もしくはアニメ、或いはその両方を体験した方ならわかって頂けると思いますが、あそこに構築された「虚構」は非常に良くできており、それ故に底知れぬ魅力と懐を持ち合わせています。そのため、何が起きるか。ラスト近くの「ゴール」シーンで、その良くできた虚構が提示する「現実と見まがうばかりの真に迫った悲しみ」に当てられてしまい、現実になかなか帰って来れなくなるという現象が生じるんです。人によって程度の差はあるでしょうが、あのゲームを最後までクリアした後、「何日か何も手に付かなかった」という経験をされた方は少なくないのではないでしょうか?人によっては「廃人になりかけた」という体験を告白された方もいます。

 私自身は、AIRでそこまでのダメージを受けたわけではありませんが、カウボーイ・ビバップというアニメのラストで、そういう衝撃を受けた記憶があります。文字通り、何日間かは全く何も手つかずになってしまいましたね。確かに入れ込んで見ていたのは事実でしたが、彼らが自分の中で現実に影響しかねないほどの位置をいつの間にか占めていた、そのことが大変ショックでもありました。


 それが、いいことのはずは、ないのですよ。


 虚構を軽んじるわけではありませんし、優れた作品は優れた虚構として賛美することをやめるものでもありません。ですが、そのために現実を生きられなくなってしまっては本末転倒なのです。虚構から得た活力を現実に活かすなら大いに結構ですが、虚構に入り込んだ結果として現実を生きる力を無くすなんて、「娯楽」の在り方としては間違っています。息抜き、或いは現実の辛さを越えるための支え、精神的な拠り所、なんでもいいですが、とにかくそういう「前向きなもの」として活用できないのであれば、娯楽は「麻薬」と一緒になってしまいます。人を蝕む、悪魔の薬です。

 それを「生きる糧」として取り込めるのか、「麻薬」としてしまうのかは、かなりの部分を受け手である我々のスキルに委ねられています。しかし、年々増え続ける「ビジネスとしてのアニメ娯楽」などは特に、より多くの人が現実を忘れてハマれるよう、より多くの人から資金を回収できるよう、という方向性で作られているのが現実で、段々受け手の感覚もマヒしていっているような怖さが私にはあるんですね。もっと刺激の強いものを、もっと現実から逃避できるものを…。正直な話、これでいいんだろうか、とは最近よく考えるんですよね。自分自身が意識を強く保ったとしても、世の中の人たちはこのまま突っ走っちゃうんだろうか、とね。

 それは多分「大きなお世話」でしょう。でも、余計なことではあっても、大事なことです。私は、娯楽には「良い娯楽」であって欲しいし、自分が地道を挙げているものを世の中から「麻薬」呼ばわりなどされたくないんです。距離を保ったり、いったんははまってもその後にちゃんと自力で帰ってこれるような、そういう付き合い方を理想としたいんです。

 前述の「AIR」をTVアニメ化した京都アニメーションが、1年あまりを経て「Kanon」をアニメ化した際に、「夢から現実に戻る」という部分に大きな焦点を当てたことは、とても象徴的だと思います。娯楽に触れている最中は「夢の中」で構いませんけれど、終わった時にはちゃんと眩しい現実に帰れなければ。そういう思いが、あの作品のラストの味わいには含まれている気がしています。


~~~


 「実写ED」というごっこ遊びが、そして恐らく「多重のメタ」を以て作品との距離感を測れる仕組みを内蔵した「らっきー☆ちゃんねる」が果たそうとしたのは、視聴者に対して「現実からの帰還」や「夢であることの自覚」を促すことだったのではないでしょうか?それはかなり乱暴な方法論ではあったけれど、我に返るような効果は確かにあったのだと私は思います。実写EDが流れるあの瞬間瞬間に、トホホ分の多く含まれた乾いた笑いと共に、僕らは目の前の夢が確かにフィクションであったことを思い出します。あー楽しかった。そう言いながら、気持ちを切り替えて現実に目を向ける、そういうものなんだと、私は思ってきました。

 しかし、この2つに対しては今でも非難の声が絶えません。「気持ちの良い夢の中に、イヤな現実を持ち込むな!」…そういう叫びが、もしかしてそこにあるのだとしたら。伝えたいこと、伝えたかったことは、全く伝わらなかったのでしょうか。

 私とて夢の中に遊ぶ、同じ視聴者の一人です。でも、込められた思いがあるのならば、それをまず受け止めてからその先を考えたい。ごっこ遊びは、いつか終わるものです。そして、子供たちは、温かい夕餉の待つ家庭の下へ帰るのです。私もあと2時間ほどで見られる最後の「らき☆すた」が示すものを万感の思いで受け止め、そして気持ちよく現実への帰還を果たしたいと思います。明日は休み取っちゃいましたしね。え?それは夢の中に居続ける行為だろうって?おまい言ってることとやってること矛盾してるだろうって?まーそう言わないで、その分レビューに時間かけるつもりなんだから。
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テーマ:らき☆すた - ジャンル:アニメ・コミック

コメント
この記事へのコメント
いよいよ、ラストです。
最終話直前のレビューだから気合が入ってますね。
てりぃさんの言う、実写EDの果たす役割に関しては思いあたることはありました。毎回毎回、祭りのように話題をばら撒きまくっていたらき☆すたでしたが、毎度の如く「またか」と言われても本編終了後に訪れる暴走気味の白石ED。話の内容を楽しみつつも、余韻に浸りすぎて現実から乖離するのを防いでいたようにも思えます。

ところで、「長いようで短い半年間でしたね~」、と常套句を持ち出したくなるほどあっという間でしたね。個人的にはkanonよりも早く時間が過ぎて行った気がします。まぁ、kanonは冬の物語で静かな印象が多かったですし、らき☆すたはここぞというネタの時にはフルスロットルで飛ばしていましたしね。京アニの本気は凄いです。
しかし、どんなににぎやかなお祭りもいつかは終わりが来ますよね。総じてアニメ・ドラマ入れ替えの時期は物悲しくなるものですが、らき☆すたは尚寂しく感じます。初めにらき☆すたを見た時には実写とは程遠いキャラ絵に、なんだか昨今の萌えブーム的な意図が感じられ距離を感じていましたが、今期の他のどんなアニメよりも人間味あるキャラクター達にこれほど感情移入している自分に驚きです。らき☆すた登場人物達が徐々に打ち解けていくに従い、自分も引き込まれていったのでしょう。

長文になってしまいすみませんが、こなたたちが織り成す祭りの最後をしかと見届けましょう。
2007/09/18(火) 01:21:46 | URL | あるかさ #9WAugNKs[ 編集]
このレビューのおかげで、
「ここにある彼方」であれの直後に後にいつものネタをやってくれたりしていたらきすたが大好きだった理由が再認識できました。

あと、てりぃさんは多分わかってる上で書いてるんだろうなと思いつつも少々。

AIRがそういった状況を生み出してしまうのは否定できませんが、
あれは虚構を現実での力に変換するための物、そういったテーマを含んだ作品だと思うんですよね。
そのための「無限ループ」と、そこから抜け出した後の、「過酷な日々」に対する「さようなら」の構造ですし。

まぁ、ゲーム用の構造なのでアニメで完全にその力を発揮したかと聞かれると疑問ですが。
しかし、わざわざ総集編を設置したことと、それのEDに「鳥の詩」を選んだことは、アニメでそれを擬似再現するための試みだった気もします。

まぁそんな事いっても実際問題逆転した作用しか受けてない人も多いんですけど。

う~む…、少々の方が長いとか、これじゃ完全に痛いだけの鍵っ子だなぁ。
2007/09/18(火) 03:02:33 | URL | 東風 #-[ 編集]
夢の終わりを過ぎて
>あるかささん

>最終話直前のレビューだから気合が入ってますね。

いや、お恥ずかしい。

らき☆すたはですね、自分としては色々と不本意なレビューしか書けない回も多かったり、監督交代の際にみっともない姿を晒したりしたことがとても心残りでしてねぇ。実際、レビューを書く際に要求されるスキルは、ある意味Kanonとは比較にならないほど高かった気がします。

そんな思いを常に抱えていましたので、せめて最後ぐらいは!って気持ちがあったんですね。この記事は、その思いの丈がいっぱい詰まっていて、自分なりによく書けたような気が(書いた直後には)していたんですが、第三者の目から見てどうだったでしょうか…。

>なんだか昨今の萌えブーム的な意図が感じられ

この辺が、一つのミソだったのかなぁ、とも思っています。見る人の視点により、見えるものが変わるアニメ、と言いますか。萌え一辺倒で行く人もいれば、私みたいに邪推の限りを尽くす人もいて、それぞれに楽しみどころがある、みたいなね。一連のパロディなどもそうで、わかるものが多い人は多いなりの楽しみ方ができるけど、わからない人も別なところに楽しみどころがあって。何とも不思議なアニメでした。


>東風さん

>このレビューのおかげで、
(中略)
>大好きだった理由が再認識できました。

お役に立てたようで何よりでございます。

>てりぃさんは多分わかってる上で書いてるんだろうなと

あははは、やっぱり、そこに突っ込まれちゃいましたね。

私自身は、「ゴールシーン」よりも後の方、後日談のところにこそ、AIRの真骨頂がある、という立場を取っています。ですが、やっぱり「ゴールシーン」がピーク、という方が多いような気がします。

でも、そこで囚われてしまうことは、実は制作サイドの本意じゃないのだろうなと思うのですね。あの「ゴール」こそが、空に囚われていた少女が見続けていた悲しい夢の終わりなのであり、本当の始まりなのですから。ああ、そうか、夢を終えて現実に踏み出すって、まるっきりKanonと共通してるんですね、今気がついた!(爆)

>そんな事いっても実際問題逆転した作用しか受けてない人も多いんですけど。

それだけ、あのシーンの破壊力が凄まじかった、ということではあるのですけれど…。まあ、なかなか、難しいものですよね。

>これじゃ完全に痛いだけの鍵っ子だなぁ。

安心して!ボクもそうだから!(爆)
2007/09/19(水) 19:00:49 | URL | てりぃ #O8jQI81I[ 編集]
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