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Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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Thatness and Thereness
 タイトルは坂本龍一の初期のアヴァンギャルドな名作、アルバム「B-2 UNIT」の一曲から。「そうであること、そこであること」という意味に代表される哲学めいた、そしてやや頭でっかちな歌詞が、どうしようもなくロマンティックなメロディに乗り、この上なく稚拙感あふれる(誉め言葉よ(^^;)サカモトの歌声とともに脳天を直撃する、色々な意味でギャップの心地よい名曲だと思っています。

 さて、このエントリでは音楽の話ではなく、京都アニメーションの話をしようと思うのですよ。彼らの原作咀嚼力と原作再現力の高さは以前からファンの間では大きく取り上げられていました。そして、広く世間にその力が知れ渡ることになった「ハルヒ」シリーズよりも、むしろその表現の是非が取りざたされたKanonにおいて、その「咀嚼力」と「再現力」の件が多く語られるようになった気がするのですね。…これはこれでやや悲しい経路ではあるのですが、まあそのことを今は問いますまい。

 咀嚼すること、再現すること。それを通して、「元々が『そうである』ようにすること」。それが一体どれだけの苦労や才能を求めるかについて、私なりの見解をつらつらと述べてみたいと思います。
 「私なりの見解」と言っておきながら、最初に他の方の記事をご紹介するのはやや気が引けるのですが(ーー;;;;)、数々の良質なレビューとリンクさせて頂いてさんざんお世話になっている「妄想界の住人は生きている」のだんちさんが、この度書かれたこれまた非常に唸らされる記事から。

 「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。

 だんちさんご自身が漫画の「制作側」に属される方ですし、そのエントリ内に引用されている佐山聖子さんはアニメーション演出家とのことですから、「本当に制作に携わっておられる方の、真に迫るお言葉」がそこからは伝わってきます。基本的に我々受け手は、制作側の「理論」を気に留めることはあまりありません。目に止まるのは実際に動くキャラクターであるとか、その背景を彩る美術であるとか、耳に届く音声などの具体的なモノばかり。しかし、我々が普段は意識せずに見ていられる部分にも、こんな悩みや苦しみがある。そして、それを乗り越えてきたものたちが、我々のハートを揺さぶっているんですね。その「ブラックボックスの中のドラマ」に対して、今さらながらに驚嘆し、感謝せずにはいられません。

 そして、この記事を読ませていただいて再認識したことの一つが、「理解・分解・再構築」という流れのことなんです。この3つの過程は超人気漫画「鋼の錬金術師」の中で、錬金術の基礎として語られているものですが、実はこれ、「表現する側に求められる過程」として考えてみても、実によくはまるのですよ。

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 私自身が「表現者」側に身を置くことは最近は滅多になくなりましたが、それでも人生の中で幾分か、その苦しみと喜びを味わったことがあります。それが、アマチュアではあるけれど「合唱」という世界であり、私のいた立場が「指揮者」という立場です。昨年以来「のだめカンタービレ」が取り上げられたおかげで何となく一般にも具体的イメージが浸透した感のあるこの仕事ですが、この仕事は単に楽譜を見て指揮棒を振り回し、テンポや音程を正しく指示するだけのものではありません。その目指すべきものは、ものすごく端折って一言で言えば、「演奏の場に一つのコンセンサスを作り出すこと」。それが出来なければ、その指揮者は無能だと言い切っていいと思います。如何に棒振りが上手かろうと、如何に膨大な音楽知識を抱えていようとも、肝心なことが出来ていなければ音楽は羽ばたかないのです。合唱団との間に、そして聴衆との間に、感動に繋がる音楽的コンセンサスを生み出してナンボ、なのですよ。

 そのコンセンサスを生むべき拠り所となるのが、「楽譜」というものです。二次元の媒体に焼き付けられた、記号と符号。これがいわゆる「原作」にあたります。指揮者はそれらを解読し、実際の「音像」として成り立たせねばなりません。しかし、指揮者が実際に「音」を出すわけではないですから、楽譜から読み取った「自分の表現したいもの」を合唱団に伝え、間接的に「表現をコントロールする」のが指揮者の技量の一番重要な部分なのだと思います。

 やや脱線しがちなので話を整理しますが、指揮者は楽譜を「理解」し、それを個々の合唱団員、個々のパートが表現すべきポイントに「分解」し、最終的に一つの(或いは一まとまりの)楽曲として「再構築」する役目を負っているのだと言えます。その意味で、合唱指揮者はアニメーションの制作現場における監督と共通の立場にいる、とも言えるわけですね。

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 さて、合唱の演奏を実現しようとする時に、「基本的に楽譜通りにやります」とだけ言う指揮者を時折見かけます。しかし、これは演奏する団員としては非常に困るんですね。何故ならば、「楽譜通り」という言い方は、一見それで全部を言い表しているようですが、その実、何一つ言ってはいないからなのです。

 クレッシェンドという記号があります。「だんだん大きく」という意味であることは、小学生でも知っています。では、今目の前にあるこの「クレッシェンド」を「楽譜通り」に表現できるでしょうか?ムリなんですよねぇ。だって、楽譜にはクレッシェンドの指示がどの音からどの音まで、ということしか書いていません。どの音量から始めてどの音量まで大きくするのか。大きくするペースはどうするのか。いきなりある程度の大きさまで大きくして後は緩やかに、なのか、それとも序盤は少しずつ大きくして最後の2拍で一気に膨らますのか。そういう「具体的なこと」は、楽譜には書いていないんです。

 それが「リタルダンド(だんだん遅く)」であろうと「フォルテ(大きく)」であろうと同じ事です。どの記号にも、誰でも理解できる「意味」は定められていますが、誰もが必ず同じように表現できるような「具体的な指示」はないのです。他にも、子音の割り付け方の問題や音の切り方など、楽譜には書かれていないたくさんの事があります。それらを「具体的な指示」にするのは誰か。それが指揮者なんです。

 指揮者が「楽譜通りにやる」ということは、上記のような「書かれていないこと」を、曲を書いた人が意図した通りに「再現する」ということなのです。そのためには、楽譜を隅々まで読み込み、その語法の中に込められた真の意味を読み解いていく作業が必要になります。漫然と眺めていても、楽譜通りの演奏なんて夢のまた夢。このクレッシェンドは曲全体ではまだ中盤の位置付けだからやりすぎないようにして、いやしかしこの部分の歌詞にはとても大事な意味が込められているから観客の心に届くだけの大きさは持たねばならないし…となどと言った「頭の中での緻密な設計作業」を、優秀な指揮者は必ずしているはず。それが、曲の持つポテンシャルに近付いて初めて、「楽譜通り」の演奏ができる可能性が生まれます。

 「理解」ができたら、今度は「分解」です。演奏を行う合唱団に対して、的確な個別の指示に置き換えていかねばなりません。音程の修正や発声の矯正と言った基礎的な部分も補いながら(この辺がアマチュアではかなりのウェイトを占めますが)、この箇所ではどんな音色で歌うのが適切なのか、テンポはどのぐらいで流すのか、他のパートと聞き合うべきポイントはどこか、全体として観客に聞こえるべきパートはどこなのか、といったことを、団員に理解してもらう必要があるのです。この時、指揮者が上記で「理解」したことをそのまま伝えてもいい音楽にはなりません。延々と歌詞の意味の講釈や作品への自分の想いの吐露を始めちゃう人もいますが、これもまたナンセンス。根性論や精神論に寄りかかるなどもってのほかです。団員の立場でこそ必要な具体的なことを、わかりやすく指示すること。それができれば、団員とのコンセンサスは次第に培われていくでしょう。

 それぞれの団員が、指揮者とのコミュニケーションに成功し、自らに課せられた「なすべきこと」を実現して見せ、それらが積み重なって大きな固まりになり、さらにその全体を指揮者が何度も微調整を繰り返して…そうしてやっと、「再構築」された演奏が世に生まれます。楽譜という原作を元に、「これは楽譜通りだ」と言われるようなものが出てくるまでには、観客には見えないけれども途方もない苦労が潜んでいるんです。そして、これはあくまでも私見ですが、楽譜の持つポテンシャルをどこまでも引き出さねば、と指揮者が自分を鼓舞する際には、その楽譜に対する底なしの熱意が裏打ちされているような気がします。私自身がそうでしたしね。愛情を深く注いだ曲であるほど、楽譜の裏に隠されたものを一つも読み落としてはならない、という気持ちになりました。過去に私の分解・再構築があまりうまくいっていないのは、偏に私の技量の稚拙さ故ですが。orz

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 「原作通りでつまらん」という言葉に対して、私がややビビッドな反応を返してしまうのは、世界もレベルも違うけれどもその労力の大きさの片鱗を味わった経験があるからです。

 奇を衒った演奏にして人目を引く方が、遙かに簡単なんですよ。対して、楽譜の裏側にあるものを忠実に守り、そのイメージの外にはみ出さないようなものとし、しかも高く高く昇華していくことは、ものすごく難しいことです。それを、抜群の咀嚼力=理解の力と、ずば抜けた表現力=分解・再構築の力で実現しているからこそ、私は京都アニメーションの作品が好きなのです。

 もう一つ言っておくべき事があるとするならば。楽譜に決して背かない演奏は、必ずしも「楽譜に背かない演奏が至高のものだから」という思いのみで目指されるわけではありません。楽譜に込められたものを正確に読み取ろうと努力する過程で、必ず得られるものがあるのですよ。それは、「その曲に対する思い」です。最初はそんなに興味を引かれなかった曲が、渋々楽譜を読み込むうちにどんどん甘美な深みにはまっていった経験が、私には何度もあります。まずその対象自身としっかり向き合うことで、限りなく引き出されるものがたくさんあるのですよ。

 「まずは穴の開くまで楽譜を読み込め。話はそれからだ。」

 若き私が自分自身に課していた「指揮者の掟」です。その変奏は、今もレビューを書く際に役立っているような気もしますが…愛着が深まると同時に、今まで見えていなかったものが次々に見えてくるという良い循環が、受け手にも作り手にもあるんですよね。緻密なものを送り出す作り手が抱いているであろう、作品への愛着。その欠片に届いた時、受け手には限りない祝福が与えられることを約束いたしましょう。

 もちろん、そこに届かなければいけない、などと言うつもりはありません。その山を目指すのも、違う山を目指すのも、皆さんそれぞれということで。「そうであること」を目指す京都アニメーションを応援するのと同様に、皆さんも皆さんそれぞれの「そうであること」を目指されますことを、私は心よりお祈り申し上げます。
楽しんで頂けましたらWEB拍手をお願いします。
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コメント
この記事へのコメント
原作を読み込むということ
はじめまして。
WEB拍手でも書いたのですが、京アニハルヒを見て感じたのがまさにてりぃさんのおっしゃりたいことだったんです。
「オリジナルを徹底的に読み込んでそのテイストを活かしつつ自己の作品としてとして再構築していく」という作業に真正面から取り組む姿勢の大切さ。
それを理解している京アニは凄いと改めて思います。

余談ですが、庄司紗矢香さんというバイオリニストの演奏にも同じような意思を感じます。
若手有望株としてCDも何枚も出されてる演奏家でいらっしゃいますので、お聞きされることを激しくお奨めします(^^)
2007/04/14(土) 22:33:48 | URL | unos #SpgztpOc[ 編集]
読み込んでナンボという世界
>unosさん

はじめまして。コメント、どうもありがとうございます。

unosさんと同様に、ハルヒの時にも私は同じようなことを考えておりまして、違った形でちょくちょくと記事にしたりはしております。これはひょっとしたら、言い続けていかなければならないこと、なのかもしれません。

CDをお勧め頂き、ありがとうございます。今はブログの更新と目の前のアニメで手一杯の私ですが、機会を見つけて探してみたいと思います。
2007/04/18(水) 01:31:01 | URL | てりぃ #O8jQI81I[ 編集]
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 こんにちは、だんちです。  「らき☆すた」第1話の感想で「映像言語」ではなく「
2007/04/14(土) 22:38:52 | 妄想界の住人は生きている。
 てりぃさん、こんばんは。 だんちさんのエントリとこちらのエントリに触発されまして、新しいエントリをアップしました。 宜しくお願いします。
2007/04/16(月) 00:54:38 | 『遍在 -omnipresence-』